旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

而今に学ぶ。3

 俊哲です。今日は仏教徒の多い国、東南アジアにあるミャンマーを旅した時の話をしたいと思います。ミャンマーは経済の中心となっているヤンゴンはもちろん、地方にも非常に美しい寺院や金色に輝く仏塔があちらこちらで目にすることができます。

 

 私はミャンマー南部、タイとの国境近くのダウェイという町で行われた世界の仏教者の大会に参加し、その期間、寺院で各国の僧侶たちと衣食住を共にしました。

 開催地となったミャンマーから参加する僧侶が多く、色んなことを質問しながら毎日を送っておりました。ある時、僧院の外に散歩に出ると、通りに面したお宅の門の脇や、塀の並びに水甕が置いてあるのを目にしました。一体なんなのだろうか、そんな疑問をミャンマーの僧侶に聞くと、その水甕には水が入っていて、蓋の上に乗っているコップを使って誰でも飲んで良いものだということを教えてもらいました。喉の渇きで困ったり、苦しんだりする人たちへの施しとして、この水甕を置いておくんだということです。

実際、ミャンマー各地を旅していると、その水を飲む人たちを何度も見かけました。

 

 恐らく、喉の渇きで苦しむ人がいたならば、誰でも水を差し上げることと思います。ですが、門前に水甕が置いてあることで、誰でも飲んで良いですよと、顔を合わせることのない人へも施しているわけです。

 私には、それが全ての方への“お供え”のように映りました。お供えをするということは、神仏や亡くなった方へお線香や、お花、お水などをお供えすることと想像されると思います。その時、生きている我々がお花をプレゼントされたら喜ぶのはわかるけれど、亡くなった方へお花をお供えすることは何なのだろうかと思われる人があるかもしれません。お供えとは、プレゼントとは違うのです。誰か一人を喜ばせるのではなく、その行為によって誰の心をも暖かな気持ちにさせてくれるものなのです。墓前に供えられた花を見れば、亡くなられた方を忍び、その方とご縁のあった人達がこの世界に感謝を持って生きているということが、視覚でも、香りでも伝わるように。

 ミャンマーで見た水甕は、喉の渇きで困る人がいれば分け隔てなく施され、またその水甕の水は、人知れず朝のうちに毎日新しいものに交換されている。それは誰か一人の喉の渇きを潤す為ではなく、水甕があるのを見ればそこに誰かを思いやる気持ちがあることを見ることができます。分け隔てなく誰をもの苦しみを取り抜いてあげたい、楽しみを与えてあげたいと思う心を慈悲心と言います。慈悲の心による行いは、際した人達の慈悲心を大きくしてくれます。ミャンマーでは日常の光景かもしれません。外国人である私だからそう感じたのかもしれませんが、同じように私達の日常の中にも誰かの心を温かくする生活が出来ているでしょうか。

かくして、お供えをすることへの知見が広がったように思います。と同時に、私は本来の施しというものができているのか省みた旅となりました。

f:id:tabisuruzensou:20181024060023j:plain

門前に置かれた水甕

f:id:tabisuruzensou:20181024055947j:plain

僧院での式典前の様子