旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

暗闇の中で見えてくるもの

 こんにちは、慧州です。この夏は豪雨や台風被害、そして大地震と立て続けに災害が起きました。被災された方々には心よりお見舞い申し上げるとともに、一日も早い復興をお祈り申し上げます。

 

 先日、私は長野県にあります善光寺へお参りしてきました。善光寺といえば、江戸時代には「一生に一度は善光寺詣り」と言われるほど有名なお寺。これまで行く機会が無かったため、とても楽しみにしておりました。

 

 善光寺の中でも特に印象深かったのが「お戒壇巡り」。本堂に祀られている本尊「一光三尊阿弥陀如来像」の床下にある廊下を巡ります。廊下の途中にある「極楽の錠前」に触れることで、本尊と結縁(将来の成仏へとつながる因縁)を果たすことができる場所なのです。

 

 道中はとても暗いため、壁に手を添えながら壁沿いにゆっくり歩かなければなりません。私はただ歩いていけばいいのかと思っていたのですが、これが暗いこと暗いこと。眼が慣れれば少しは見えるかと思ったのですが、全く光が入らないため何も見えないのです。廊下の長さはたった45メートルしかないにも関わらず、本当にここから出られるのか不安になるくらい長く感じました。幸いにも無事に「極楽の錠前」に触れて出て来ることが出来ました。光が見えた時にはまるで生き返ったような思いでした。

 

 普段生きている中で暗くて何も見えない経験はあまりないと思います。子供の頃は、部屋の電気が消えることを恐れ、暗闇には何か魔物やお化けがいるのではないかと思っていました。でもよくよく考えてみれば、それは私たちの心の中で作られたイメージに過ぎません。

 

 なぜ私たちは暗闇を恐れるのか。それは視覚的情報が一切遮断され、とっさに行動を移せないためと言われています。目に見えないものや先が分からないことが怖いと思うのは子供に限った話ではなく、本能的なものであり、自然なことなのです。

 

 私たちが生きているこの世界はいつも光があり、本当の暗闇は数少ないものとなりました。特に都心部では、夜になってもネオンが煌々と輝き、不夜城と化しています。しかし、光が常にあっても私たちは本当の意味での安心を得られるとは限りません。「お戒壇巡り」のように、暗闇をまざまざと感じるからこそ、この世界にあふれる光に大きな希望や安心を覚えるのではないでしょうか。暗闇の中で手探りに一筋の光を求めて歩く姿、それはまさに私たちの人生そのものではないか。そう感じた善光寺詣りでした。

 

f:id:tabisuruzensou:20180927074955j:plain