旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

而今に学ぶ。2

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今回は、トルコ最大の都市イスタンブールを旅した時の話をします。

イスタンブールは古くはコンスタンティノープルと呼ばれ、ローマやイェルサレム等と並び、大司教の置かれたキリスト教の五本山の一つでした。

しかしその後オスマントルコ支配下となり、そのオスマントルコの流れをくむ現在のトルコ共和国ではイスラム教徒が大半となりました。

 

 実際に旅をしてみると、アジアとヨーロッパの他、エジプトの名を冠する香辛料を扱う市場があったり、古くから人や文化が交錯する町であったことがわかります。

 

 町の中心にアヤソフィア大聖堂があります。赤いドーム状のモスクで、もともとはキリスト教の大聖堂でした。中には、正面にメッカの方角を示す扉や聖者の名が大きく掲げられております。これを見たとき、違和感がありました。それは偶像崇拝を禁止するイスラム教にあって、アヤソフィア内部には至る所にキリストの絵や聖母マリアの絵が描かれているのです。トルコ人のガイドに聞けば「我々の教えは、ここにキリスト教の教会があったからこそモスクになった。過去の偉大なもの、それを我々の文化に染めるけれど、過去に感謝し、敬意を払う。だから絵が残されている。その上に我々がここに今生きるのだ」と話してくれました。

宗教の類似点や、そのガイドの論説の是非、過去に起きた諸事件についてはここでは言及しません。

 

 

 しかしながら、そのガイドの話してくれた内容、この過去の歴史があったから我々が今この時代に、この場所に生きていて、そして、その過去に感謝をして生きていくということ。これは仏教的な見方をしても同じことが言えるのでは無いでしょうか。

 

 今、私が生きているのはその言い尽くせないほどの縁、大きな流れの中でこのように今、この時代、この場所にしか生きてくることがなかったのだと。道端のアスファルトの割れ目に咲くタンポポは、そのアスファルトの間だから花開いたのです。それは移し変えたら枯れてしまったかもしれない。まさに、その時代、その場所だったから生きている。その環境を誰かのせいだ、とも言えるかもしれません。ですが、誰かのせいにする、憎く思うも感謝するも自分次第です。自分の人生を人のせいにしていたら、いつまでもその「誰か、何か」に捉われ、本当の自分の人生を歩むことができません。だからこそ、過去に感謝をし、敬意を払い次に進んで行く。そしてそのことに気づいた瞬間から、次の一歩が自由に選べる。

これが過去と未来を繫いでいる、空間と時間軸の交差する点、つまり『今』の関わり方ではないでしょうか。

 そう思うことも、このモスクに訪れたご縁なんだなぁと、そんなことを考えながら眺めた金角湾に沈む夕日の美しさを今でも時々思い出します。

 

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