旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

曇った眼鏡を外す

こんにちは!光彬でございます!

ご無沙汰しておりますm(_ _)m

私がいる山梨県身延町はすっかり秋めいて

辺りの山々が赤黄緑と、色付いてまいりました。

皆さんの住む街ではどんな景色が広がっていますか?

 

さて、私が住むこの町は

廃校に次ぐ廃校で、過疎化の一途を辿っています。小さな子はあまりおらず、小中学生はバスで学校に通い、中年の方は朝早くから仕事に向かい、道行くお年寄りの方々は朝早くから田畑を耕したりお散歩をしています。

私は犬を飼っていて、朝夕にそれぞれ約一時間ほど散歩に行きますが、上記のような光景を見かけては今日も変わらないなと安堵します。

 

そんな中で、朝会うとすごくお話が長いお年寄りの方がいます。ニコニコしていて話も面白いのですが、犬を連れている私は時間で動いているため

まだかなぁ〜という思いでいました。

連日そんなことが続くと、無意識に時間をずらしたりルートを変えたりと、どう上手く会わないようにするか考えてしまいました。

会わない日は時間通りに過ごすことはできますが、犬は少し寂しそうです。

ある日、肌寒い朝、いつものように散歩に出ました。しばらく歩くと、その方に出くわしました。

私はしまったという思いでしたが、そんなことも気が付かないようにいつものようにお話が始まりました。しばらく話に付き合っていると、犬がフルフルと震えているようでした。毛が短い犬なので冷えたのでしょうか、私はまだ相手の方が話している途中に、失礼します!とその場を立ち去りました。全く、いつも話が長いからどうにかしてほしいなと思って歩いていました。

 

 その夜、ランニングに出掛け40分ほど走って

家に向かっていたところ、なんとまた

その方に会ったのです。夜にも歩いているのかと驚きましたが、私は長くなるのを恐れながらも

軽く挨拶をしました。すると、向こうから

今朝方はすいませんでしたと言われました。

私は犬の様子に気がついていたのかなと思って大丈夫ですよと答えましたが、内心は今朝だけではないだろうとまで思ってしまっていました。

しかし、その方から出てきた言葉で私は更に

驚きました。朝歩いているとたくさんの人と会えて、一人で暮らしていると楽しくなってしまってつい長く話してしまう。自分のことも話すけど、色々な話が聞けることが嬉しいが、今朝、私が話の途中で去ったのを気にして、夜に静かに歩くことにしたとのことでした。私は一気に罪悪感に覆われました。私の考えでは及ばないところで、地域の人とコミュニケーションをとり

人知れず他の方やバスを待つ子供を見守ったりしていたのです。

 先にも記したように、この過疎地域では人が少なくなり、またコロナの影響もあって日に人と会わない日が少なくありません。私は時間通りに過ごしたいという自分の思いだけを先行し、相手の寄り添ってくれている気持ちに気が付くことができなかったのです。また、この方はいつもお散歩の時に小さなビニール袋をもち、ゴミを拾いながら散歩しています。陰徳を積まれている姿も目に入らなかったのです。

 

お釈迦様の教えを記したスッタニパータという聖典には、生まれを問うことなかれ、行いを問え。火は実にあらゆる薪から生ずる。

というものが残されています。

これは、貧しいとか富んでいるとか好きとか嫌いとか、様々な立場で人を見ることをせず、その人の行いを観なさいということです。また、どんな薪にも火を強めることができる力を持つように、どんな人にもそれぞれの力を強める働きを秘めているから、正しい見方で相手と接していかなくてはいけないのです。

 これから先出会う人とも、この教えを忘れず相手と向き合い素敵な関係になれればと思います。

 

秋は月

みなさんこんにちは尚真です。朝夕の冷え込みが増し、秋も深まってきました。気温が急激に下がる日も増えてきて、私も急いで秋冬物の服を引っ張り出して着ています。

 

つい先日、近所のスーパーに出かけた時の事です。どこのスーパーでも入ってすぐの目立つところに、季節の商品などのおすすめ商品が陳列されていると思いますが、そのスーパーはお月見のお団子がワゴンいっぱいに並べられていました。

 

秋と言えばお月見だよな~と思いながら何気なく眺めていたのですが、良く考えてみれば、先月ごろ中秋の名月だなんてニュースで言っていたのを思い出しました。

 

掲げてあるのぼりを見ると「十三夜」と書いてあります。確か、私が知っているお月見は「十五夜」のハズ。いつの間にか「十三夜」なるものが出来たのかと思い少し調べてみました。

 

十五夜」は旧暦の8月15日を指すそうです。昔は7~9月を秋としていたので、8月15日がそのちょうど真ん中に当たることから中秋の名月と呼ばれます。今年は9月10日でした。

 

ちなみに、「十五夜」は中国の「中秋節」が起源となっているそうです。中国では、家族の円満を願い月に見立てた平べったくて丸いお菓子「月餅(げっぺい)」を食べます。日本のお団子はまん丸ですから面白い違いですね。

 

それに対して「十三夜」は日本古来のお月見で起源は平安時代まで遡ります。旧暦の9月13日にあたり、今年はスーパーに出かけた10月8日がちょうど「十三夜」でした。

 

なぜこの秋にお月見のイベントが二つも集中しているのでしょうか。それは秋は気温や湿度が下がり、空気が綺麗に澄んでいるためなのだとか。また「十五夜」ではその年の豊作を祈り、「十三夜」は収穫後の豊作を感謝する意味合いも込められていたようです。

 

もともとの由来の違いはあるにせよ、「十五夜」と「十三夜」はセットでお月見をすると良いとのことです。「十三夜」を知らなかった私は、片方のお月見しかして来なかった訳ですが(片見月と言うそうです)、豊作のお願いだけして、その後で感謝をしないというのは、少し虫がいい話のような気がします。

 

皆さんは普段の生活の中で、空を見上げてみる機会はありますか。日々何かと忙しかったり、悩み事を抱えていたりするとそんな余裕が無いという方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

真っ暗な空に煌々と月が輝くような月夜は、何だか心が空っぽになるような感覚になります。満月を見ると狼や大猿に変身してしまうように、月夜には昼間の空には無い、何か特別な魅力があるような気がします。

 

また私の住む地域はあまり街灯がない道も多いため、月が出ていない夜はあたりは真っ暗です。そんな夜は、普段月が闇夜を照らしてくれているありがたみに気付くことが出来ます。

 

私も最近忙しく、ゆっくりする時間を取れないでいたところだったので、先日の十三夜の月を見て少し心が軽くなった気がしました。

 

秋の夜長と言うように秋は夜の時間がどんどん長くなってきます。ぜひ皆さんもゆっくりと夜空を見上げて、秋の月を堪能してみて下さい。

 

道元禅師は「春は花 夏ホトトギス 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」という歌を詠まれています。道元禅師も修行に励まれる合間に、秋の月を眺めていたことでしょう。

 

 

十三夜の月



 

而今に学ぶ。26

 こんにちは、俊哲です。暑かった夏がまだ昨日のように感じられますが、お彼岸も終わりすっかり秋本番となりました。皆様いかがお過ごしでしょうか。

 

 世界が未曾有のコロナ禍となってからのこの3年間。読者の皆さまも、3年という歳を重ね、社会の変化に加え自身の加齢という変化を経て、価値観や時間の使い方にも大きな変化があったのではないでしょうか。

 私自身もコロナ禍で海外への渡航機会を失い、同時にお寺で過ごす時間がとても増えました。それはそれでやりたかったことを始める機会ともなり、その一つで野菜作りや植物の世話を始めました。

 

 特に以前より興味があったホーリーバジルの栽培を始め、この3年間で収穫の楽しみや苦労を味あわせてもらっております。最近では花や葉を乾燥させ、お茶にして身近な方へお渡しすることができ、ありがたいことにお渡しした方から感謝の言葉をいただき、2度、3度と喜びを味あわせてもらっております。

 

このホーリーバジルはハーブの一種でとても強い香りを放ちます。それゆえにこの葉を食べる虫も限られ、シソ科のハーブを好むベニフキノメイガの幼虫が目立ちます。この幼虫は、手で触っても毒がないことから、薬品や殺虫剤を用いず、見つけては手で取り除く作業をシーズン中はずっと繰り返します。

 

 春先からハーブ畑に通い手入れをしていると、ハーブのみならず、畑周囲の雑草や虫たちも季節によって様々な姿を見せてくれます。

 

愛らしいてんとう虫の姿も

 

 

 涼しい日が増えてきた9月末から10月は、音色の美しい秋の虫も当然増えるのですが、夏の頃には畑で姿を見なかったスズメバチの姿をよく目にします。

 

 涼しくなったことで餌となるものが減ったスズメバチは先ほど述べた、蛾の幼虫や虫達を捕食するため畑に近づいてきます。この時期のスズメバチはそうした飢えによって殺気立ち、攻撃性を増していることから非常に危険と言われます。

 実際この時期に畑で見るスズメバチは、夏には捕食しなかった蛾の幼虫を狙うほどですから、殺気立っているのはその場に居合わせると非常によくわかります。

 

 

 

 私の祖父はスズメバチに刺され、アナフィラキシーショックでこの世を去りました。

そうしたこともあり、幼い頃からスズメバチの危険性を両親から口酸っぱく言われて私は育ちましたので、時期に関わらずスズメバチのことを人一倍気にしております。

 

 つい先日も畑からお寺に戻る道で、殺気立った大きなスズメバチとすれ違いました。

正面から飛んできたスズメバチに、思わず急ぎ身を低くして、頭上をビューっと飛びゆくスズメバチを見送りました。

次の瞬間には

「あっぶねー。」

と思う自分が居りました。

 

その正面から飛んできたスズメバチや畑の周りで狩りをしているスズメバチは、私の中で「死」を意味していることに気がつきました。

飛んできた鉄砲玉と同じようなもので、当たらなくてよかった、死ななくてよかったと安堵しておりました。

 

 

実際は、ただ懸命に生きているスズメバチの姿がそこにあるだけなのですが。

 

「あっぶねー。」と思っている自分とも距離を置き、冷静になると、

必死に生きようとするスズメバチの命と、祖父の命がたまたま交差をしたということがそこにあるだけだとわかります。

そして私も、先ほどすれ違った正面から飛んできた「懸命に生きる命」「死」の象徴が、私の命と交差するのが今じゃなくてよかったと安堵しているのだと気がつきます。

 

 

 実際は、いつどこでこの命が終わりを迎えるのか分かりません。

もしかしたら次の瞬間には…。

そんなことを頭ではわかっていても、その「死」への恐怖が可視化され、自身の目の前に現れた時、私は生きていることに安堵し、生きていたいと感じておりました。

 

スズメバチが見せた姿も、私が抱いた安堵も、どちらも懸命に生きる命に違わないものだったでしょう。

 

而今に学ばせていただきました。

ホーリーバジルの花。和名は神目箒。

天日干しをするホーリーバジル。インドの伝統医学アーユルヴェーダには「不老不死の霊薬」とも

 

 

#曹洞宗 #農業 #アーユルヴェーダ #ホーリーバジル #ハーブティー

#皆さん #スズメバチ には #気をつけて

随喜

こんばんは、禅信です。

ブログを書き始めて諸々しているうちにこんな時間になってしまいました。

 

当山の参禅会も賑わいを取り戻し、お寺の行事も徐々に再開され始めました。

 

今年から両大本山の二期法要にも山内だけでなく随喜の和尚さんや一般の

戒弟さんの参加を受け入れて1週間の修行を通して禅師様から、お釈迦様とのご縁(戒法)を頂く御授戒が修行されました。

 

私は永平寺を送行した次の年から、戒弟さん(禅師様からの戒法を受けるために参加する一般の方)の補佐をするお役を頂き、戒弟さんと共にお授戒会に参加させていただいております。戒弟さんと同じように私も普段は世俗社会で生活している為、永平寺での生活は刺激的なものです。

まだ暗い廻廊を坐禅堂へ向かい、修行僧と一緒に坐禅を組み、遠くに響く鐘の音を聞いていると修行当時の懐かしい想いと、一人で坐る坐禅とは違う独特の緊張感に自然と背筋が伸びます。

作法に従い食事をいただき、諷経では声を合わせて読経します。合間の時間も法堂正面から愛宕山を見晴らす景色や雲水の所作・威儀に触れ自然と襟が正されます。

 

 

1週間修行を勤め、28日の夜に戒法を授かる儀式を受ける戒弟さんの姿勢や表情は、23日永平寺に来た時の参加させてもらっているお客さんの顔から、真摯に禅師様のお言葉を受ける修行者の顔に変わっています。

 

『霧の中を行けば覚えざるに衣湿る』という禅語があります。

 

私も戒弟さん達と同じように、永平寺の生活に一週間身を置いて雲水さん達と生活する中で自ずと坐禅堂に向かい、まっすぐに礼拝し、典座さんの作った精進料理を頂く。そのすべてが行を修める心・姿に変わってきます。

 

今月も23日から29日まで永平寺では、『御征忌』(道元禅師の御命日9月29日の前7日の期間全国から和尚さんが集まり報恩諷経を勤める)が修行されます。

 

本山の手伝いを通して、日常生活を振り返り修行へと引き戻してくれる私にとってとても大切な時間となっております。

 

良い影響を与えてくれる環境に身を置くことは、知らず知らずのうちに私を良い方向に育ててくれる。そんな環境があることを幸せに感じます。

長年の積み重ね

こんにちは、哲真です。

 

八月も終わりですね。八月はお盆がありお寺としては忙しい月でもあります。それに加え今年は暑さも厳しい日が多々ありました。

 

お盆には多くの方々がお墓参りにやってきます。今年は訪れた方々に「庭が綺麗ですね」「花いっぱいだね」「すごい境内」などといわれました。それは、お盆に蓮の花がたくさん咲いていたからです。

 

蓮は、花言葉にあるように「神聖」や「清らかな心」の意味を持っていて、「悟りの象徴」としてお寺のいたるところに存在するというイメージでしょうか。仏像の台座は蓮の花の形をした「蓮華座」がもっともポピュラーかもしれません。また、観音様が蓮を持っている仏像もあります。

 

仏教の教えでは「泥中の蓮華」と呼ばれることもある蓮。そんな蓮という植物の特徴は、水中の泥に根づいて、水面より上に美しい花を咲かせることです。このように、不浄である泥の中から芽を出し、真っ直ぐに茎を伸ばして優美な花を咲かせる様子から、蓮は仏教の教えの象徴としてとらえられているということが云われています。

 

そういうわけで仏教にとって大事な花なのですが、咲く時期は6月下旬から8月初旬です。上品な香りを持ち、大輪を咲かせますが、花が咲くのは早朝の数時間だけで、3日ほどで散ってしまいます。その為、実はお盆の時期ちょうどに咲いているというのは結構珍しいことなんです。

 

当寺で蓮の世話は師匠が主に行っており、長い間育ててきて近隣の寺院からも蓮に関して聞かれたりしています。毎年、お盆前に見ごろを迎え、お盆になると数個の花びらが見えるだけで、ハチス(と言うのでしょうか?下の写真のもの)

 

こればかりがあるという状態でした。ただ今年は、咲く時期を見越して手入れの日にちを計算し見事、お盆の期間中に見ごろを迎えたのです。

 

これは、師匠の長年の経験と日々積み重ねた知識が合わさった結果です。人は何事も日々の生活のなかから多くの知識を得ることができます。自分が持っている知識を生かすも殺すもあなた自身であると、教えられた気持ちになりました。

 

夏の日、雑感。


 

 

 

連日、全国版ニュースでは各地での酷暑の様子を伝えていますが、

今年の北海道の夏は体感的には涼しく、時には寒いとさえ感じるほどです。

 

 

ただ、暑がりな私にとっては非常にありがたい夏となっております。

 

 

皆さまごきげんよう、俊宏です。

 

 

 概ね、この時期に記事やコラムを上梓する場合、

「お盆」について書いたほうがやはりいいのでしょうが、

「お盆」についての法話や文章はもうそこここに溢れかえっているので、

この件の話題に関してはよその優秀な方丈各位にお任せをし、

拙僧の方は通常運転で行きたいと思いますのであしからず。

 

 

 さて、最近、SNSや寺院会報などで情報を発信することが増えてきたのですが、

その折に当寺院の情報を付した「QRコード」を初めて作成しました。

 

 

 なにゆえ不勉強世間知らずお坊なもので、

こういったものに関して多大なる偏見&不安を抱えていましたが、

いざ手を付けてみるとびっくりするほどイージー&ブリージーでした。

 

 

ホントに便利な世の中ですね。

 

 

今でこそ当たり前な技術として存在している「QRコード」ですが、

気調べたところなんと発明・展開したのは日本人の技術者の方だったんですね。

 

 

 

当寺(札幌別院)のインスタグラムアカウントのQRコードです



 

だいたいこのような革新的なものは舶来品であることが多い様な気がしてましたが、

まさかのメイドインジャパン

技術大国日本、まだまだ捨てたもんじゃないですね。

 

 

ただ、個人的に一番関心するところは、開発者の方が誰でも無料でこの技術を使えるようにしたところにあると私は思います。

 

 

 実際、技術を独占して利益を上げることも出来たのでしょうが、

それをせず(開発者の原昌宏氏は一部の特許は取得されているそうですが)公共の利益に資する姿勢を貫いたそうです。

 

 

まさに利他の心をこの先端技術から感じました。

 

 

あくまで私の目の届く範囲でではありますが、

今の世の中は自分という存在が大きすぎる人が多い様な気がします。

 

 

もちろん、自分という存在もかけがえのない大切な存在ではあります。

 

 

ですが、それでも自分と他人の区別もなく、ごく自然に誰かの幸せを願えるような自身であれば、あるいはそんな人がすこしでも増えていけば自分を大きくなんてしなくても、所謂、幸せになれるんじゃないでしょうか。

 

 

まあ、言うは易し行うは難しですが、

前向きに日々を生きようとかそんなことをQRコードから教わった令和4年の夏でした。

 

 

 

 

追伸 

もし自分が「QRコード」の開発者であったら、

使用フリーにはしても自身が開発者であるのがパッと分かるように、

製品名くらいには爪痕残しちゃうなあ、、、

 

【TSコード(T=タニ、S=シュンコウ)とか】

 

なんて器の小さいことを同時に考えてた2022年の夏でもありました。

 

 

生きるとは いのちを頂くこと

おはようございます。拓光です。

連日暑い日が続いております。皆さんいかがお過ごしでしょうか。

 

先日、遊説中であった安倍晋三元首相が銃撃され命を奪われるという悲しい事件が起きました。

この事件で犠牲になられた安倍元総理大臣のご冥福を謹んでお祈り申し上げます。

 

仏教には守るべき戒律がいくつかあります。その中の一つに不殺生戒(ふせっしょうかい)という戒律があります。

不殺生戒は読んだ字の通り「人の命を奪ってはいけない」という教えです。

 

仏教では御縁を大切にします。私達一人ひとりは沢山の繋がり合いがあって始めてこの世に産まれることができ、今現在も沢山の支えの中で生きています。人を殺めるということはこの御縁を身勝手に断ち切る行為であり、改めて言うまでもなく人を殺めるということはあってはならないことです。

 

しかし、私達人間は動物や植物などの生命を殺して食べなければ生きてはいけません。

お釈迦様は精進料理(肉、魚などを用いない食事)のみを食し、それ以外は口にしてはいけないと説かれたのではなく、私達人間のために差し出された、すべてのいのちに対して感謝の気持ちを持って頂かなければならないとお示しくださっています。

私達は他の命の存在に「生かされている」という感謝の気持ちを持つことが大切です。

その生かされている命を一生懸命生きることが、食糧としていただいた他のいのちを生かすことになります。

つまり不殺生戒という戒律は上記で述べた「人の命を奪ってはいけない」というだけでなく、「自分を支えてくれる、すべてのいのち(御縁)に対して感謝を生きる」と教えになります。

今こうして生きている私の命は、自分の力だけで生きているのではなく、多くのいのちの支えのおかげであると言うことができます。

 

最後にこれからお盆を迎えます。

故人が亡くなっても故人との思い出は私達の心の中に残ります。お盆に法事やお墓詣りをすることで、故人や先祖を思い出し供養することが出来ます。

故人との思い出を大切するということは、亡き人を忘れない(殺さない)ということでもあり、これも不殺生戒の教えを守るといってもいいのではないでしょうか。