旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

花に学ぶ

こんにちは!光彬です!
しばらくお休みをいただいており、
久しぶりの記事投稿をさせていただきます。
よろしくお願いいたします!

日中はようやく暖かくなってきて
境内や山々の花が咲くのが見えるように
なってきました。花粉症の私には
嬉しくも辛い季節です(笑)

そんな花にまつわる出来事です。
私は花に興味も無く、特段好きではありませんでした。
ですから、自坊の本堂に飾っている花の水換えや、
庭先にある花への水やりなんて一切
していませんでした。すぐ枯れるのに
なんで毎日毎日面倒なことをしなきゃならないんだ?
気がついた人がやればいいや、くらいに
思っていました。ですが、そんな気持ちが行動に
表れていたのか、東京の修行道場で、観音堂の花の
水換えをしていた時のことです。
いつものように水換えをするつもりでしたが、
普段より少し時間が掛かっていたので、
中の水を換えずに花に水道水をバシャーと
掛けて戻そうとしました。その場面をある老僧に
見られていました。
普段からそういう風に水換えをしてるの?と聞かれ、
いいえ、時間が押していたのでこれくらいでいいかと。普段は水を換えてジョウロや霧吹きで葉を湿らせてます、と答えました。そうすると、花も生きている。きれいな水を飲まないと具合が悪くなってすぐ傷んでしまうよ。人と同じではないかな?と言われました。
この時、私は、自分の都合や考えで一方的に
花を反故にしていたことに気付かされました。
公務通り毎日水換えをして、傷んだ葉を取ったり
霧吹きで水分を与えたりしてあげれば長持ちするのに
それを花のせいにしてきちんとやるべきことを
していませんでした。
人に対しても、優しくすれば相手も自分に対して
良くしてくれることがありますが、適当な態度を
とったり向き合うことをしなければ関係は
悪くなってしまいます。
生命で溢れたこの地球の中で、同じように
生命活動しているものは大切にしなくてはなりません。

これからはさらに注意深く生命に向き合い
大切にすることを忘れないよう務めていきます。
春の訪れもすぐそこまで来ています。
みなさまが心豊かな日々を送れるよう
お祈りいたします。

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結果にこだわるという事

みなさんこんにちは尚真です。3月になり日差しも暖かくなり、すっかり春らしくなってきました。

 

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ウメのつぼみが膨らんできました

 

つい先日まで中国の北京で冬季オリンピックが開催されていました。そして3月4日にはパラリンピックが始まります。東京オリンピックパラリンピックもついこの間のようですが、もう冬のオリンピックかという感じです。

 

これもコロナウィルスの影響で東京オリンピックが延期となったためですが、見る側としては楽しみが増えたような気になり、今となっては、これはこれで良かったのかもしれません。

 

選手やスタッフ、関係者の方々の気持ちを思いやると、様々な苦労の中で延期することなく開催されたことに安どされた事と思います。

 

さて冬のオリンピックの種目の中で皆さんはどの競技をご覧になったでしょうか?メダルの結果も影響しているかもしれませんが、視聴率の高かった競技は1位と2位がカーリング女子(決勝と準決勝)、3位がフィギュアスケート男子シングルだそうです。

 

そんな中、我が家での注目度が高かった競技はスキージャンプとスノーボードハーフパイプです。どちらの競技も前評判通りの活躍で日本人選手が見事金メダルを獲得しました。

 

日本人選手の活躍もさることながら、見ていて惹きつけられたのはやはり競技自体が持つ迫力だったかと思います。

 

スキージャンプの100mを超す大ジャンプや、ハーフパイプの縦横に何回転もするトリックなど、あの大迫力は夏のオリンピックでもなかなか見られるものではありません。

 

そもそも冬季オリンピックの種目は高スピードの競技や、高速で回転するような競技が多いように思います。氷や固められた雪の上での競技ですので、選手が失敗して転倒などしようものなら、見ているこちらまで痛くなる気がします。

 

ましてスキーのジャンプやハーフパイプは痛そう度合は金メダル級です。自分には到底出来そうもありませんがそういった側面も見ているものを惹きつける理由かも知れません。

 

中継の中でハーフパイプの選手のコメントが紹介されていましたが、「命懸けて競技に取り組んでいる中で、心の中では空を飛んでみたいという想いがある」とのことでした。

 

選手達は恐怖心と闘いながら、技や飛距離などの自分の限界に挑んでいるだけでなく、もしかしたら人類の限界にも挑戦し続けているのかもしれません。

 

このように自分の目標を目指して、技の完成度や順位などの結果に強くこだわることは、見方を変えると「執着」に似ています。

 

四苦八苦という言葉は皆さんにもおなじみの言葉ですがもとは仏教の言葉で苦しみの種類を表しています。この中に「求不得苦」という苦しみがあります。

 

これは求めるものが手に入らない事での苦しみを指します。求めるものとは物質的な物だけでなく、地位や名誉など欲望が満たされない苦しみも含みます。ですので私たちは執着を離れることで、苦しみから逃れることが出来るのです。

 

きっと選手の皆さんも思うような結果が出ない時期には、苦しみを抱えている事でしょう。周囲からのプレッシャーやトレーニングも重なって、さまざまに苦しんでしまいそうです。

 

そう考えると、選手の皆さんは執着を捨てる事とは真逆のように感じてしまいます。しかしそのような苦しみを隠しながら直向きに競技に打ち込む姿が、見ている人に感動を与えるのでしょうか。

 

普段の生活の中で、結果に強くこだわってしまう場面があるかと思います。そんな時には執着は捨てるばかりでなく、良い結果を生む執着もあるのだなと感じた北京オリンピックでした。

 

そしてそんな平和の祭典であるオリンピック直後に、残念なことに新たな戦火が生まれてしまいました。犠牲になられた方のご冥福を祈るとともに、一刻も早く停戦交渉がまとまり、被害が拡大しないことを祈ります。

 

遠い国で戦火に合われている方々に、私たちがしてあげられる事があるのでしょうか。私たちが今できる事は、もしかしたらただ祈る事しか出来ないのかも知れません。

 

せめて自分たちの周りで、どんなに小さな争いだとしても、これ以上争いを起こさないようにする事はすぐにでも出来ることだと思います。

 

このブログでも今まで色んな方が「同事」の記事を書かれてきました。どんなに意見や価値観が異なる人でも、今こそ「同事」の気持ちを大切にして、争いごとの無い生活にしたいと思います。

而今に学ぶ。24

 

 こんにちは。俊哲です。皆様いかがお過ごしでしょうか。

私の投稿日は2月16日。昨日15日は釈尊涅槃会が営まれました。

日本では古くから2月15日をお釈迦様のご命日として、涅槃に入られた(お亡くなりになられた)その日にお釈迦様の遺徳を偲び法要を営みます。

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インド・クシナガラ。大涅槃寺内の釈尊涅槃像

お釈迦様がお亡くなりになられる時のことは経典に書かれ、大般涅槃経などがその代表です。曹洞宗でお通夜の際に読誦される仏遺教経もお釈迦様が涅槃に入られるその時の様子が書かれた経典の一つです。

 

 インド・クシナガラという地にて涅槃に入られるのですが、経典を読むと自身の葬送の執り行い方や、残される弟子たちに語りかけるお釈迦様のお言葉が、今日の私たち仏教徒にも、優しく時に厳しく語りかけてくださっているようにも感じます。

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インド・クシナガラの大涅槃寺外観

 

 お釈迦様の前世のお話をまとめられたジャータカ物語を読むと、シッダールタ王子として生を受ける以前から、どれだけのことを成してきたのか、そしてそれを受けあの時にお釈迦様として悟られ、成道されたということは、忘れたり軽んじてはなりません。

 

 それと同時に、わたしたちと同じように1人の人間としてこの世に生を受け、1人の人間として亡くなられたということも大事なことです。

 

 

 私はインドを訪れる以前、お釈迦様のお言葉を経典で学び、お姿を想像することはあっても、どこか物語の中の超人のように思うことがありました。しかし、初めてインドの仏跡を訪ねた時、人間として生きたお釈迦様のお姿を強く感じました。

 

 

 経典の中には、お釈迦様がお亡くなりになろうとするその時、身の回りのお世話をされた阿難様(アーナンダ尊者)が激しく涙を流されたと伝えられております。(そこでお釈迦様が語られたことは有名なお言葉なので、私はここでは述べませんが、興味を持たれた方はぜひ、ブッダ最後の旅を読んでみてください。)

 

 

私がここで、阿難様のお姿を紹介したのは、

お釈迦様はその教えの中で、”生じたものは必ず滅す”と述べられ、諸行無常という事実を何度も、何度も述べられました。ですから、側におられた阿難様も当然、何度もそのお話を聞いていたはずで、その諸行無常という事実を事実として分かっておられたはずです。

しかし、自身の師匠の死に際して、阿難様は大変に涙を流し、お釈迦様が息を引き取るそのお姿を見守っておられたということです。

 

 そのお姿に、お釈迦様の教えを今日の私たちに繋いできたのは、当然ですが"人から人"だということをこの時期は改めて強く感じます。

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お釈迦様が最後に水を飲まれたという地に建つお堂とお釈迦様の御尊像

 本山での修行中、私が学生時代に大変にお世話になった先生が亡くなった報が届きました。修行中で葬儀に立ち会えないことや、言葉にならない思いに坐禅が苦しくて、時に坐禅中に涙が流れることがありました。「仏教者たる者、諸行無常なのだ!強くあれ!強くあれ!」と自分に言い聞かせ、日々を過ごしておりました。

 

 そんな折、老師に個別に質問をする機会をいただき、当時の私の胸中を話しました。老師は、「お釈迦様も身近の人の死には、きっと同じように涙を流されたよ。流れた涙もいつか渇く。その涙も諸行無常だ。」とお話くださいました。

 

 

 "お釈迦様と同じ"や、"阿難様と同じ"という言葉は、受け取り手次第で全く違った意味を持ち、時と場合によってはその者を驕慢にもします。そう気を付けると、とてもお釈迦様や阿難様と私は同じだなんてことはなかなか言えません。

 

ですが、こうして僧侶の端くれとして、その教えを嗣ぐ末端の者として、涅槃会に際し、人間釈迦牟尼のお姿や、お祖師様達のお姿に大変に励まされております。

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大涅槃寺内の釈尊涅槃像全体の様子

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大涅槃寺参拝前に食事をした門前の食堂

 

 

 

冬の朝課

こんばんは、禅信です。

 

最近はお寺を空けることも少なくなったので、

住職と2人で朝課のお経を務めることが多くなりました。

 

 

今朝もいつもと同じように本堂正面の扉を開け新しい空気を

入れ替えてから御本尊に向かい読経を始めます。

 

 

2.30分ほどの読経ですが、声を出すので少しずつ目が覚めて

読経が終わる頃にはスッキリと晴れやかな気持ちになります。

 



昨夜は少し夜なべをして作業をしていたこともあって普段よりも

お経を詠む声が小さかったのか、朝課の終わりに住職から…

 

「お経を詠むときにも、命がけで読まないといけない」

 

と、そんな話をされました。

 

その時は、「命がけ」だなんて大げさな話をするなぁと話半分に聞いていましたが。

 

そういえば、子供の時には何かと「命がけ」でやりなさいと言われていたことを

思い出して懐かしい気持ちになりました。

 

 

改めてこの、「命がけ」という言葉を考えてみると、

自分の一番大切なものと誰でもすぐに理解できると思いますが、

これは、お経を詠んでいる時も、座禅をしている時も、仕事をしている時にも。

 

その時々すべてが、自分の大切な「命の時間」をかけて行っている行為であることに

気が付きます。

 

 

大人になって、時間の経過が早く感じられ、一年を振り返ってみるとあっという間に終わったように感じるのも、「命の時間」を大切に修行できていないせいなのかな?と

反省する朝でした。

 

12分の1年が終わり残り大切な11ヶ月

 

朝課の読経同様に「命がけ」の生活を送りたいと思います。

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月日が経つのは、はやいですね

こんにちは、哲真です。

 

「明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。」と言い始めたと思ったら、1月も中旬を過ぎようとしています。月日が経つのは早いものです。

 

毎年、この時期になると一年どのようにしていこうとか、こんなことをやりたいとか考えます。コロナ禍の影響により達成することが難しいものもあるのですが、目標があると日々が楽しみでいっぱいになります。

 

ただこれでは、未だ見ぬ未来へ希望を馳せていることになります。本来は今、その一瞬一瞬を生きることが仏教へ身を置くものにとっては大事なのです。

 

朝、目覚めれば毎日同じ朝が繰り返しやってくる訳ではありません。毎日違う朝が来るのです。一度過ぎた時間は戻ってきません。だからこそ今を疎かにせずに過ごすのが大切なのです。

 

新型コロナが流行し、昔はこんなことができた、収束したらこんなことがしたいと思っている方も多いでしょう。ただ、コロナ禍だからこそ、リモートが普及し、会社へ行かずとも仕事ができる時代へと変化したとも言えます。

 

無常迅速ということばがあります。

 

無常とは、世の中は常に変化していて変化しないものはないという意味です。迅速とは非常に速い様子のことです。つまり、人の世の移り変わりは、この上なく速くてはかないのです。

 

今、一瞬一瞬を精一杯過ごし、嬉しいときには思いっきり喜び、問題に直面したならばそれを真摯に受け止めて解決の道を探っていくことが大事です。

 

また、命に対しても同じで、いつまでも生きていることはありえず、その時が来れば滅していきます。掛け替えのないあなたの命、そのあなたの命を大切にしている人もいます。共に掛け替えのない命ならば、その一瞬を疎かにすることのないようにしなければなりません。

 

無常迅速ということばを考えれば、今のようなコロナ禍での生活状況も変化しこのまま一生続く訳ではないということになります。その時が来るまで今を精一杯生きて、今年の年末には良い一年だったなと言えるようにしていきたいものです。

 

新年となり、今を大事に過ごしていかなければと心に思い書かせていただきました。

 

今年もよろしくお願いいたします。

 

合掌

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新年の始めに初めまして。

こんにちは。今回より「旅する禅僧」ブログに投稿させて頂くことになりました、谷俊宏(たにしゅんこう)と申します。

 

北海道札幌市にて数年前に師寮寺の分院を建立し、主に市内を中心に布教活動をさせて頂いております

 

北国の田舎者が「旅する禅僧」ブログの新年一発目の投稿を担わせて頂くこと、大変遺憾ではございますが、開き直って書かせて頂きます。どうぞお付き合い下さい。

 

「寒いねと話しかければ寒いねと答える人のいる温かさ」

 

こちらの歌は、歌人俵万智さんの歌集『サラダ記念日』の中の一首です。実際に小学校、中学校、高校で授業時間に用いる教科書のどこかで、皆さまも目にしたことがおありかと思います。私の大好きな歌の一つです。

特に今の季節にぴったりな、とても心温まる良い歌ですよね。

 

数年前から続く新型感染症の流行や、異常気象による自然災害などの社会不安により、世の中は多くの悲しみにあふれています。

特に身近な所では、この感染症流行に伴う人間関係の希薄化が、差別や格差といった問題に現れている様に思えます。この未曾有の危機の中で私達に求められることとは一体何なのでしょうか。

 

曹洞宗の教えの中に同事という言葉があります。

その教えを修証義というお経の中では”同事というは不違なり”【同事というのは違わないこと】と示しております。

常に相手の立場になり、同じ気持ちで共に喜び、悲しみ、寄り添い合って生きていくことが肝心だと表しています。

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実際に、この「同事」の教えのように、自身の気持ちを理解してくれる存在が傍にいることは、とても心強く感じられ、大いに安らかな心持ちになれることでしょう。

 

冒頭で取り上げた俵万智さんの歌は、人と人との繋がりの温かさ・尊さを、更にはこの「同事」という言葉の意味を、より親しみやすく表現している歌ではないかなと私は思います。

 

先に申し上げた世の中の状況を心細く感じ、不安定な気持ちで日々を過ごされている方は一際多い事でしょう。そんな現状においてこそ、この俵万智さんの歌のように他者に寄り添う心、即ち「同時」の智慧をもって人々が手を取り合い、思いやりをもって過ごしていくことが、今を生きる私達にとっては特に重要になるのではないでしょうか。

 

まだまだ全国的にも寒さが続く時節ではありますが、俵万智さんの歌のような、人と人との繋がりの中に生まれる小さな幸せが、皆様の日々の生活の中で少しでも増えますようにお祈り申し上げ、私の拙話を終わりにしたいと思います。

何かを始めるというのに遅いということはない

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こんにちは。拓光です。今年も残すところわずかとなりましたがいかがお過ごしでしょうか。

皆さんは今から何かを始めてみたいけど、今更だなと思い、始めるのを断念してしまった、そんな経験はないでしょうか?

今から1900年程前、インドに波栗湿縛(はりしば)尊者という僧侶の方がおられました。この波栗湿縛尊者が出家をして仏道修行を始めたのが80歳からでした。

80歳という高齢であったため、周りの人達はからかって波栗湿縛尊者に対してこう言いました。

「なんて愚かな年寄りなのだろう。修行には二つの大切なことがある。一つ目は坐禅をすること、二つ目は御経を読むことだ。果たして80歳の年寄りにそんな大変なことが出来るのか」と。


波栗湿縛尊者は多くの非難の言葉を聞いて、何か反論をするでもなく、その人達に対して感謝をしてから、こう言いました。「私は、煩悩を捨て去り、仏の悟りを得るまでは、席に脇をつけないつもりだ。」

ここで言う席に脇をつけないとは横になって休まないという意味です。波栗湿縛尊者はこう誓って以来、立ったままに思いを巡らし、御経や坐禅についても誰よりも勉強をし、実践しました。

そして3年で仏の悟りに達し、自らの誓いの通り席に脇を付けることなく修行をしたということから、波栗湿縛尊者は人々から脇(わき)と書いて脇(きょう)と読む脇尊者と呼ばれました。

この波栗湿縛尊者、脇尊者は私達に「仏道修行において、人は志さえ起せば、たとえ何歳であろうと実行することが出来る。」「だから仏道修行を始めるというのに年齢は関係ない」とお示し下さっているのです。

仏道修行とは仏が歩んできた道を修行すると書くように、仏のような心を持って日々精進することを言います。ですから仏道修行というのは、僧侶だけが行える特別なことではなく、誰でも今日から実践出来ることです。仏のような心を持つための教えは沢山あるのですが、本日は私達の生活の身近にあるものをひとつ紹介します。

例えば御縁を頂いて、こうしてブログを投稿させていただいているのも私にとってはとても有難い体験です。旅する禅僧に誘って下さった髙倉さん、玉島さん、温かく迎えて下さったメンバー、ブログの読者様には感謝しかないです。

こういった「御縁に感謝をする」ということも仏道修行のひとつです。

御縁に感謝をするとは、出会うもの全てに対して感謝の心を持って触れ合い、一つ一つの出会いを大切に生きることです。私達人間は自分一人で生きているのではありません。多くの出逢いや支えによって、はじめて今の自分が存在します。

また出逢うのは人間同士だけではありません。例えば食事一つにしてみても、まず天候に恵まれて、生産者がいて、流通を支える人がいて、調理する人がいて、はじめて目の前に食事が並びます。食事一つ取っても沢山の御縁で繋がっています。

今、挙げた「御縁に感謝をする」ということは、仏道修行の中のほんの一つですが、もしこの御縁に気付かなければただの出会いや食事ですが、「御縁に感謝をする」このことに気付くことで私達は沢山の繋がりの中で生きている存在であると知り、感謝の気持ちを日常生活を過ごす中で持つことが出来ます。

このように仏道修行を実践することで、一つ一つの出会いや出来事に今までとは違う新しい一面が見えてくるのではないでしょうか。

 

本日は「仏道修行を実践することに遅い」ということはないという脇尊者の話をさせていただきました。

私達が生きている今この時は、大切な一瞬であるので、毎日の生活をただ漫然と過ごすのではなく、脇尊者のように、今更だなと思わず、あと何年生きるかなんて誰にもわからないのだから、私も心身を惜しまずに仏道修行に精進してみよう。そんな風に思っていただければ幸いです。