旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

完璧な手

こんにちは。向月です。

今年の夏は特に暑い日が多いですね。

(もう暦は秋だというのに・・・)

 

数年前、毎日33℃を超えるような猛暑の夏がありました。

そんな暑さから逃げようと、東北を旅したことがあります。行き先は会津若松、喜多方でした。

 

毎度のことながらお金のない貧乏旅でしたので、宿泊はユースホステルやライダーズハウスがメインでした。

(最近はユースホステルをあまり見かけなくなりましたね。)

 

ユースホステルでは、一人旅の旅人同士が仲良くなって、情報交換などをよくします。

私が泊まったユースホステルでも夜リビングに集まり、ワイワイと話をしていました。

その中に、画家の方がいました。

 

旅をしながら絵を描いているというその方とお酒を飲みながらお話しました。

旅をしながら絵を描いていると言うくらいだから、風景画なんだろうと思っていました。

私は見せてもらえないかと頼んでみると、その方は大きめのスケッチブックを取り出して私に渡しました。

 

見てみると風景画ではなく、すべて人の「手」の絵でした。

なぜ手の絵を描いているのか訪ねると

 

「人の手は完璧だ。指の本数や長さ、関節の曲がり具合、掌の広さにいたるまで、全て完璧だ。だから手を描いている。」

 

このように言われました。ほろ酔いのその方は、私に自分の手をさしだし、話を続けます。

 

「私は、生まれつき左手の指が一本足りない。それでも完璧だ。不便だが不自由と思ったことがない。こんなに自由に動く手は、完璧なんだ。」

 

そう言われて、ハッと思いました。私は、指が5本あることが当たり前で、それが完璧だと思っていました。

その方は、指が4本だろうがその身体で生まれてきたことが完璧だと言っていたのです。

 

 

生まれてきた自分(各々の命)がそのままの尊いのだ。釈尊もそのように言われたという。

僧侶となった今、旅の画家が言われていたことがよく分かる気がするのです。

みんな違う人生を送っているが、尊い命を、今を生きている(生かされている)ということは同じなんだと感じた旅でした。

 

 

また別の旅では「イライラを感じる」ことがあったのですが、それはまた今度。

いい湯だな

 はじめまして、慧州と申します。様々な禅僧が旅先や日常の中で感じたことを綴っていくコラムということで、今回初めて寄稿することになりました。宜しくお願いいたします。

 暑い8月も半分が過ぎ、お盆の時期を迎えています。もしかしたらこのコラムを見ている方でも帰省をされて、地元でお墓参りや懐かしい方々との再会を果たしているかもしれません。 

 先日、私の姉達も子供を連れて帰省しにやってきました。5人の甥っ子、姪っ子が集まったため、家の中はとても賑やかに。何日か宿泊したのですが、その間は自宅のお風呂ではなく近所の銭湯に行くのが我が家の恒例となっています。実は普段銭湯に行く機会が少ない子供達にとって、銭湯は楽しみなイベントでもあるのです。

 

 銭湯といえば大きなお風呂ですが、もう一つ普段は入れないものがあります。それは水風呂です。子供にとって水風呂は一番気持ちがよいみたいで、どうしても水風呂に入るとはしゃいでしまいます。ついつい騒いでいると私や父に怒られてしまうのはご愛敬でしょうか。

 お風呂に入った後の冷たい飲み物も楽しみの一つです。甥っ子は入る前から私にこう言いました。

 

「お風呂上がったらフルーツ牛乳飲むんだ!」

 

瓶に入った冷たい牛乳をゴクゴクと飲み干し、ついつい「ぷはー」と声に出す子供の姿は、まるで風呂上がりにビールを飲む大人のようです。今の学校給食では牛乳パックが多いそうで、当初は紙蓋の開け方も分からなかった子供達でしたが、今では手慣れたように開けています。

 

 そんな楽しい銭湯ですが、何よりも魅力的なのは知らない人との交流です。先日ある方が子供達に銭湯の事を教えてくれました。

 

 「ここにある岩は動物に見えるでしょ?わざとやっているんだよ」

 

山の壁画の脇に岩が置いてあるのですが、角度によっては動物に見えることを教えてくれたのです。すると子供達はたちまちにいろんな物を動物に見立て始めました。

 

「この岩はライオンに見えるね。でもなんで山の近くにライオンがいるの?」

 

私はその想像力に黙って笑ってしまいました。

 

 大人が子供を育てると思われがちですが、実は大人である私たちも子供に育てられていると感じました。子供の感覚はどこか懐かしく、そして大切なものが隠されているような気がします。

 最近は知らない人と話すことは物騒だと言われてしまいます。しかし、銭湯は大人子供関係なく楽しむことができ、知らない人も含めみんなで場所を共有できる場所です。そういった場所に連れて行ってあげることも大人の役目なのかもしれません。

 

f:id:tabisuruzensou:20180815092656j:plain

登る禅僧その0 ~佛道は人々の脚跟下~

今年は平成最後の夏という事で、高気圧も平成を惜しむかのように、記録的猛暑に見舞われております。皆様いかがお過ごしでしょうか?

等と言っておりますと、ちょうど本日私の住む関東地方に台風が接近しており、夕方ごろから風雨が強まって来ました。これから台風も増える時期ですので、皆様も充分お気を付けください。

 

こんにちは。尚真と申します。縁あってこちらに寄稿させていただく運びとなりました。人様に文章を披露するのは不慣れな為、他の方のように立派な文章を書く事は出来ませんが宜しくお願い致します。

 

さて旅する禅僧という事で私も旅に関する話でも・・・と行きたい所ですが、海外に行った事の無い私ではエピソードが弱すぎる上に先々続かない!

なので私は最近新しく始めた趣味の山登りのお話をさせて頂きます。ドライブがてらのちょっとした山登り旅。それなら何とか続きそう!

 

と言う訳で題して「シリーズ 登る禅僧」! 

山登りはまだまだ始めたばかりで、どちらかというとまだハイキングレベルです。私の文章力と共に、登る山の標高が上がっていくのを楽しみに読んでいたければと思います。

 

さて今回はシリーズ初回ですのでその0です。私が山登りにハマった理由をお話しします。

そもそも山登りに行くきっかけは奥さんに誘われたからでした。まあ奥さんと結婚したきっかけも山登りなのですが、まあ詳しい馴れ初めエピソードは今後ネタに困った時の為に取っておきましょう。

 

初めて山登りに行った際、慣れない山道を一歩一歩、歩みを確かめながら山頂に向かい歩いていました。山道は凸凹で不確かです。ぬかるんで滑りやすい所もあります。大股で急いで歩いたり、勢いよく駆け上ったりなど危険でもっての外。

 

そんな時にふと思い出した言葉があります。それは「佛道は人々(にんにん)の脚跟下(きゃっこんか)」と言う言葉です。

 

この言葉は私が修行道場から師寮寺に戻る前の晩、修行中に大変お世話になったえらいお坊様(注:後堂老師と言うお役目の方です)から頂戴した言葉です。

脚跟下(きゃっこんか)とは足元という意味ですので、その人の足元に佛道がある、つまりは日々の一歩一歩の積み重ね、一つ一つの行いが佛道として現れると言う意味と私は解釈しています。

 

山登りも一歩一歩の積み重ねが大事なのだな~とそんな事を考えながら歩いていると、見慣れない景色も相まって、頂上に着いた頃にはもうすっかり山登りの虜になっていました。

 

こんな感じで山登りを通じて感じた事、毎回お伝えしていければと思います。私の回はどうぞ新聞の4コマ漫画を読むくらいの、軽い気持ちで読んで頂ければと思います。次回も宜しくお願いします。

 

最後に先日6日は広島、明日9日は長崎へ原爆が投下された日です。過去に起こった出来事を教訓にし、その教訓を自分たちの生活にどう活かすのか。私達の生活に活かせる教訓もきっとあるはずです。争いの無い世界が早く実現されますように。。。

 

f:id:tabisuruzensou:20180808201015j:plain

山道も一歩一歩が大切です。

而今に学ぶ。1

 こんにちは。はじめまして、俊哲と申します。この度こちらに寄稿する運びとなりましたが、なにぶん不慣れなため見辛いこともあるかと思います。どうぞご容赦ください。

 

 私は学生の時より海外を旅するのが好きで、学業の傍らアルバイトをして旅行資金を貯めては学生身分の貧乏旅をしておりました。卒業後は御本山で修行をし、師寮寺に戻った今でも暇をもらえれば旅に出ております。ただ、修行生活にて物を必要としない生活に慣れたこともあり、ますます身軽な旅を続けております。

 

 私が旅に出始めた理由は「宗教とはなんだろうか」という疑問からでした。『人が何を願い、なぜ祈るのか。そこに暮らす人たちはどんな生活を営んでいるのかを身をもって経験する。』したがって現地の人たちの生活のある場所を歩くことが多い旅をしています。

 特に仏教国と呼ばれる国を中心に旅を続けており、ここではタイトルの而今ニコン〕の意味する「今、ここ」に感じたことや、改めて思うことを記していきたいと思います。

 

 

 

 

   その中で、幸せについて考えさせられたことがあります。

 

 ベトナムの首都ハノイから北の町へ移動していた時、私の乗っていたバスが郊外の町で渋滞にあいました。窓の外を眺めると小さなケーキ屋が目に入りました。

そのケーキ屋は通りに面し、たくさんのバイクによって巻き上がる粉塵でショーケースが薄汚れています。中には日本のものに見慣れた私にはお世辞にも美味しそうとは言えないケーキが並んでいました。するとそこに一組の親子と思われる一台のバイクが停まりました。二人はケーキを眺め始めたのですが、私はその時見た、ケーキを選ぶ女の子の嬉しそうな様子、傍で娘さんを見守る優しいお父さんの表情が忘れられません。誕生日なのでしょうか。何かのご褒美なのでしょうか。

 

 バスの車窓から見た親子の姿に、時代も場所も環境も異なる私自身の記憶と重ね、普遍的な幸せを眺めたように思います。

 

 幸せに生きる第一歩は外に求めるのではなく、身近なことに気がつくことから始まるのかもしれません。合わせた両の掌の中に既に在る温かさを感じるように、あの親子の姿から私たちは幸せの意味を改めて考える時なのかもしれません。

  そこで最後に皆さんにお訪ねします。今、幸せでしょうか?

 

f:id:tabisuruzensou:20180801192520j:plain

ベトナムを旅した時の一枚

一大事

炎暑の候、いかがお過ごしでしょうか?
日本中で40℃を越す気温が発表され、
外出もままならず不自由な日々を
お過ごしであると、お見舞い申し上げます。

また集中豪雨で命を落とされた諸精霊位に
追悼の意を表します*

改めまして、みなさんこんにちは!
光彬(こうひん)と申します。
よくコーヒーと間違われます。
さて、タイトルにありますように
一大事のお話でございます。

会社の一大事だ!
友達の一大事だ!
恋人の一大事だ!
と、上記のように使うことは昨今
少なくなっているかと思います。
それは、"一大事"が略され"事"と
短く表されるようになったからです。
そしてこの"事"には、"命に関わる大切なこと"
という意味があります。

私がこの言葉の意味と出会うきっかけとなったのは
昔、産婆さんをされていた方の
お葬式を務めさせて頂いた時です。
その方はたくさんの赤ん坊を取り上げ、
この世界に無事に命を迎えるお仕事を
されていました。

その方の御子息様がお話してくださいました。
母はいつも「産事と楽しく、真剣に向き合って
いればいい子が出てくる」と。
その時に、ん?産事?と疑問に思いました。
今思えば、その産婆さんは"事"の
意味を理解されていたのかと思います。


食事、性事、家事、仏事、、、
ふとした時に、~事と付くものがあります。
我々は知らず知らずのうちに日々、
命に関わるほど大変なことを成し遂げ
1日、1日を生きています。

ですから、感謝の心と、よく頑張った!と
自分を誉める心を持ってみてください。
何か景色が見えてくるかもしれません*



七月も終わりに近づいてきました。
どうか、熱中症等にお気をつけて
お過ごしください*

シンプルに伝える

はじめまして、哲真と申します。

暑い日が続いております、体調はいかがでしょうか?

西日本豪雨での災害、被災者の方々に心からお見舞い申し上げます。

 

 

私の住む宮城県はまだですが、東京などでは7月がお盆のところがあります。そうすると供養などでお寺に関わることが多くなると思います。

年回などのお寺で供養の際によく聞かれるのが、「供物は何をお供えしたらいいの?」です。

「お菓子と果物、それにお花を上げてください」といわれることが多いと思います。

実際、私もそう申し上げますし、修行の際もそうするものだと教わった記憶があります。

ただ、そう私もお話しさせていただくのですが、実際はどんなお菓子がいいのか?、果物の量は?と悩まれる方は多いと思います。

 

青森県の恐山に行く機会がありました。

恐山は、下北半島にあり、霊場として有名で、恐山菩提寺というお寺があり、御祈祷や供養に多くの人が訪れるところです。宿坊もあり、その中には、温泉施設まであります。また、イタコの口寄せが行われるところでも有名です。

そのお寺での御祈祷や供養を拝見させていただく機会があり、法話を聴くことができたのですが、話している内容が実にシンプルでわかりやすい。

「供物などは、好きだったものや、食べてもらいたいものをお供えしてください」

「お菓子や果物以外でも、お供えしたい物があったら何でもいいです」

「もし、洋服をお供えしたければ洋服もどうぞ」

「お供えするという気持ちが大事なのです」

とおっしゃっておりました。

洋服もお供えするのかと驚きましたが、聞いている方々は、うん、うんとうなずきながら、感心していました。

 

これが正解、不正解といった事ではなく、お寺や宗派によっても違った見解はあるでしょう。しかし、そのシンプルな内容が聞く人を納得させ、感心させていることを知りました。

 

檀家さんにお話しするときは、仏教用語を使って難しい内容で話してしまうことが多くなりがちでしたので、シンプルな内容も取り入れていこう思った出来事でした。

 

 

 

私のいるお寺の庭に蓮の花が咲き始めました。お寺に蓮は似合いませんか

f:id:tabisuruzensou:20180717175049j:plain

「相互依存」の心地よさ

初めまして、向月と申します。

今回は「相互依存の心地よさ」を感じた話をさせていただきます。

相互依存と聞くとあまり良いイメージを持たない方もいるかもしれませんね。

しかし、身近な相互依存で心地よいと思える経験をしましたので、その時のお話しです。

 

私は一人旅が好きです。20数年前、よく行っていたのが、沖縄です。

沖縄といえば現在は観光アイランドとして有名ですが、当時はまだ人も少なく、静かな島も残っていました。

私が当時よく行っていたのは、八重山諸島。特に竹富島、黒島といった小さな島でした。

 

竹富島に行ったとき、民宿のオジーから三線(沖縄の三味線)を教えてもらいました。

1週間、宿泊したのですが、その間に3曲ほど弾けるようになりました。

三線の音色や沖縄の雰囲気に完全にハマってしまいました。

 

東京に戻ってきて、早速三線を買い、毎日練習していました。

あるとき、公園で弾いていると、おばあさんが立ち止まって聴いてくれました。

そのおばあさんは、沖縄に近い鹿児島の離島出身の方で、三線の音色が懐かしいと言っていました。数分お話しをし、おばあさんは帰っていきました。しばらく練習していると、さっきのおばあさんが戻ってきたのです。手にはパンとお茶を持っていました。

「お昼まだだったら、どうぞ。癒やされたので、そのお礼よ。」

そう言って、パンとお茶を渡してきました。

私はそのおばあさんの好意を大変うれしく思いました。

 

当時、私は無職でした。「自分には何もやりたいことがない。できることがない。」そんな思いを抱えて過ごしていました。

そんな時にこのおばあさんと出会ったのです。おばあさんが私の三線に「癒やされた」と言ってくれたとき「何もなくても何かを人に与えることができるんだ」と感じました。

 

 

人は一人では生きていけず、常に誰かと何かと関わり合って生きています。何にも依存せず自分一人で生きることはできません。みんな相互依存の中で生きているのです。

このおばあさんとの関わりは「三線で癒やされる」と「パンとお茶をいただく」といったものでしたが、お互い話をする中で打ち解け合い、気分が良くなることができました。お金やモノのやりとりではなく、心のやりとり。

Give & Takeを超えた“お互い様”で支え合う相互依存の心地よさを感じた話でした。

数年後、旅先で「ありがたい」と感じることに出会うのですが、その話はまた今度。