旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

而今に学ぶ。1

 こんにちは。はじめまして、俊哲と申します。この度こちらに寄稿する運びとなりましたが、なにぶん不慣れなため見辛いこともあるかと思います。どうぞご容赦ください。

 

 私は学生の時より海外を旅するのが好きで、学業の傍らアルバイトをして旅行資金を貯めては学生身分の貧乏旅をしておりました。卒業後は御本山で修行をし、師寮寺に戻った今でも暇をもらえれば旅に出ております。ただ、修行生活にて物を必要としない生活に慣れたこともあり、ますます身軽な旅を続けております。

 

 私が旅に出始めた理由は「宗教とはなんだろうか」という疑問からでした。『人が何を願い、なぜ祈るのか。そこに暮らす人たちはどんな生活を営んでいるのかを身をもって経験する。』したがって現地の人たちの生活のある場所を歩くことが多い旅をしています。

 特に仏教国と呼ばれる国を中心に旅を続けており、ここではタイトルの而今ニコン〕の意味する「今、ここ」に感じたことや、改めて思うことを記していきたいと思います。

 

 

 

 

   その中で、幸せについて考えさせられたことがあります。

 

 ベトナムの首都ハノイから北の町へ移動していた時、私の乗っていたバスが郊外の町で渋滞にあいました。窓の外を眺めると小さなケーキ屋が目に入りました。

そのケーキ屋は通りに面し、たくさんのバイクによって巻き上がる粉塵でショーケースが薄汚れています。中には日本のものに見慣れた私にはお世辞にも美味しそうとは言えないケーキが並んでいました。するとそこに一組の親子と思われる一台のバイクが停まりました。二人はケーキを眺め始めたのですが、私はその時見た、ケーキを選ぶ女の子の嬉しそうな様子、傍で娘さんを見守る優しいお父さんの表情が忘れられません。誕生日なのでしょうか。何かのご褒美なのでしょうか。

 

 バスの車窓から見た親子の姿に、時代も場所も環境も異なる私自身の記憶と重ね、普遍的な幸せを眺めたように思います。

 

 幸せに生きる第一歩は外に求めるのではなく、身近なことに気がつくことから始まるのかもしれません。合わせた両の掌の中に既に在る温かさを感じるように、あの親子の姿から私たちは幸せの意味を改めて考える時なのかもしれません。

  そこで最後に皆さんにお訪ねします。今、幸せでしょうか?

 

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ベトナムを旅した時の一枚

一大事

炎暑の候、いかがお過ごしでしょうか?
日本中で40℃を越す気温が発表され、
外出もままならず不自由な日々を
お過ごしであると、お見舞い申し上げます。

また集中豪雨で命を落とされた諸精霊位に
追悼の意を表します*

改めまして、みなさんこんにちは!
光彬(こうひん)と申します。
よくコーヒーと間違われます。
さて、タイトルにありますように
一大事のお話でございます。

会社の一大事だ!
友達の一大事だ!
恋人の一大事だ!
と、上記のように使うことは昨今
少なくなっているかと思います。
それは、"一大事"が略され"事"と
短く表されるようになったからです。
そしてこの"事"には、"命に関わる大切なこと"
という意味があります。

私がこの言葉の意味と出会うきっかけとなったのは
昔、産婆さんをされていた方の
お葬式を務めさせて頂いた時です。
その方はたくさんの赤ん坊を取り上げ、
この世界に無事に命を迎えるお仕事を
されていました。

その方の御子息様がお話してくださいました。
母はいつも「産事と楽しく、真剣に向き合って
いればいい子が出てくる」と。
その時に、ん?産事?と疑問に思いました。
今思えば、その産婆さんは"事"の
意味を理解されていたのかと思います。


食事、性事、家事、仏事、、、
ふとした時に、~事と付くものがあります。
我々は知らず知らずのうちに日々、
命に関わるほど大変なことを成し遂げ
1日、1日を生きています。

ですから、感謝の心と、よく頑張った!と
自分を誉める心を持ってみてください。
何か景色が見えてくるかもしれません*



七月も終わりに近づいてきました。
どうか、熱中症等にお気をつけて
お過ごしください*

シンプルに伝える

はじめまして、哲真と申します。

暑い日が続いております、体調はいかがでしょうか?

西日本豪雨での災害、被災者の方々に心からお見舞い申し上げます。

 

 

私の住む宮城県はまだですが、東京などでは7月がお盆のところがあります。そうすると供養などでお寺に関わることが多くなると思います。

年回などのお寺で供養の際によく聞かれるのが、「供物は何をお供えしたらいいの?」です。

「お菓子と果物、それにお花を上げてください」といわれることが多いと思います。

実際、私もそう申し上げますし、修行の際もそうするものだと教わった記憶があります。

ただ、そう私もお話しさせていただくのですが、実際はどんなお菓子がいいのか?、果物の量は?と悩まれる方は多いと思います。

 

青森県の恐山に行く機会がありました。

恐山は、下北半島にあり、霊場として有名で、恐山菩提寺というお寺があり、御祈祷や供養に多くの人が訪れるところです。宿坊もあり、その中には、温泉施設まであります。また、イタコの口寄せが行われるところでも有名です。

そのお寺での御祈祷や供養を拝見させていただく機会があり、法話を聴くことができたのですが、話している内容が実にシンプルでわかりやすい。

「供物などは、好きだったものや、食べてもらいたいものをお供えしてください」

「お菓子や果物以外でも、お供えしたい物があったら何でもいいです」

「もし、洋服をお供えしたければ洋服もどうぞ」

「お供えするという気持ちが大事なのです」

とおっしゃっておりました。

洋服もお供えするのかと驚きましたが、聞いている方々は、うん、うんとうなずきながら、感心していました。

 

これが正解、不正解といった事ではなく、お寺や宗派によっても違った見解はあるでしょう。しかし、そのシンプルな内容が聞く人を納得させ、感心させていることを知りました。

 

檀家さんにお話しするときは、仏教用語を使って難しい内容で話してしまうことが多くなりがちでしたので、シンプルな内容も取り入れていこう思った出来事でした。

 

 

 

私のいるお寺の庭に蓮の花が咲き始めました。お寺に蓮は似合いませんか

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「相互依存」の心地よさ

初めまして、向月と申します。

今回は「相互依存の心地よさ」を感じた話をさせていただきます。

相互依存と聞くとあまり良いイメージを持たない方もいるかもしれませんね。

しかし、身近な相互依存で心地よいと思える経験をしましたので、その時のお話しです。

 

私は一人旅が好きです。20数年前、よく行っていたのが、沖縄です。

沖縄といえば現在は観光アイランドとして有名ですが、当時はまだ人も少なく、静かな島も残っていました。

私が当時よく行っていたのは、八重山諸島。特に竹富島、黒島といった小さな島でした。

 

竹富島に行ったとき、民宿のオジーから三線(沖縄の三味線)を教えてもらいました。

1週間、宿泊したのですが、その間に3曲ほど弾けるようになりました。

三線の音色や沖縄の雰囲気に完全にハマってしまいました。

 

東京に戻ってきて、早速三線を買い、毎日練習していました。

あるとき、公園で弾いていると、おばあさんが立ち止まって聴いてくれました。

そのおばあさんは、沖縄に近い鹿児島の離島出身の方で、三線の音色が懐かしいと言っていました。数分お話しをし、おばあさんは帰っていきました。しばらく練習していると、さっきのおばあさんが戻ってきたのです。手にはパンとお茶を持っていました。

「お昼まだだったら、どうぞ。癒やされたので、そのお礼よ。」

そう言って、パンとお茶を渡してきました。

私はそのおばあさんの好意を大変うれしく思いました。

 

当時、私は無職でした。「自分には何もやりたいことがない。できることがない。」そんな思いを抱えて過ごしていました。

そんな時にこのおばあさんと出会ったのです。おばあさんが私の三線に「癒やされた」と言ってくれたとき「何もなくても何かを人に与えることができるんだ」と感じました。

 

 

人は一人では生きていけず、常に誰かと何かと関わり合って生きています。何にも依存せず自分一人で生きることはできません。みんな相互依存の中で生きているのです。

このおばあさんとの関わりは「三線で癒やされる」と「パンとお茶をいただく」といったものでしたが、お互い話をする中で打ち解け合い、気分が良くなることができました。お金やモノのやりとりではなく、心のやりとり。

Give & Takeを超えた“お互い様”で支え合う相互依存の心地よさを感じた話でした。

数年後、旅先で「ありがたい」と感じることに出会うのですが、その話はまた今度。