旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

而今に学ぶ。31

 こんにちは、俊哲です。関東では桜の季節も終わり、新緑が目立ち始めました。皆さんはいかがお過ごしでしょうか。

 

 

現在、横浜にある大本山總持寺では、太祖瑩山禅師の700回大遠忌を厳かに執り行っています。

總持寺参道




曹洞宗には二つの大本山があり、一つは福井の永平寺、もう一つがこの總持寺です。大遠忌法要は4月1日から21日までの3週間にわたって行われ、全国から多くの焼香師が参加し、瑩山禅師の遺徳を称えています。

 

 私もこの大法要の一環として、總持寺の一員として参加し、訪れる皆様をお迎えしています。この法要は50年に一度のもので、次は50年後。その時、私はこの場にいることができるのか、そして、もし生きていても、参加することができるのかどうかは分かりません。これが最初で最後の参加になるかもしれないと思うと、感慨深いものがあります。

 

きっと50年前にこの法要に立ち会った方々も、50年後の法要に思いを馳せていたことでしょう。私も同じように、未来の總持寺曹洞宗を思い、今この瞬間を大切にしたいと思います。

 

 

毎日、朝のお勤め(朝課)を休むことなく行じ、その鐘の音やお経の声が時間を超えて響き渡るのを感じます。

『茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す』―瑩山禅師の有名な言葉にもあるように、私たちはその日その日を粛々と生きています。

 

 

この3週間で、桜は咲き誇り、そして散っていきました。暑い日もあれば、寒い日もあり、春の嵐には窓が揺れました。花が散れば箒で掃き、窓が汚れれば雑巾で拭う―そんな日々の繰り返しを通じて、私たちは50年後も続いていることを願っています。

 

作務



 

今、まさに總持寺の中からこの記事を綴っているのですが、このような仏縁に際し、多少困難であっても順番そのままに今回投稿をさせていただこうと思ったのは、やはり今感じていることを文字に起こしたいと思ったからです。

ただ、いざ文字に起こすと、もっとたくさんのことを感じながら過ごしている自分がおり、感じたことを文字にまとめるのは少し早かった気も致しております。

 

太祖瑩山禅師700回大遠忌はただの追悼行事ではなく、過去を振り返りつつ未来へと教えを繋ぐ重要な行事です。私はこの大法要に携わること仏縁をいただきました。その経験を生涯にわたって深めていくだろうという確信を持っております。いや、むしろ現段階ではその誓いを抱いたことしかうまく言葉になっておりません。

 

700年前に遷化された方の法要に際し、自分がこの世にいない時から繋がってきたバトンを受け取り、自分がこの世にいなくなった世界にバトンを繋いでいく。

 

自分がいない世界を基準に生きること。太祖様に導かれ、この尊い時間を21日間しっかり修行させていただきます。

總持寺三門

太祖瑩山禅師700回大遠忌

 

梅花流詠讃歌

富士山

 

こんにちは、禅信です。

 

4月に入り日中はとても暖かくなり半袖で出歩く人をチラホラ目にするようになって参りました。

 

かく言う私も半袖で出歩く数少ないその一人であります…。

 

先日、梅花流詠讃歌の練習会にお誘い頂き静岡県藤枝市のお寺に行って参りました。

片道4時間の道中も方角を示してくれている富士山を目印に徐々に大きくなるその姿を楽しみながらのドライブになりました。

ようやく昨年からお寺に集まっての講習会が再開されて、梅花講講員の皆さんと一緒に、楽しくお唱えの練習をすることができる機会が増えて参りました。

 

 

この度の練習会は「スマイルアゲイン」を合言葉に、東日本大震災の復興を目的に始まった梅花の集いです。

その参加費は、お弁当代などの必要経費を差し引いてそのほとんどが義援金として被災各地に届けられます。

曹洞宗梅花流の活動理念、「わたくしたちは、梅花流詠讃歌を通して仲良い暮らしをいたします」とお誓い文を読み上げます。

お唱えの上手い下手を競い合うではなく、ともに声を合わせて祖師方の御教えに親しみ仲良くより良い暮らしを目指すなかで。

何者も取り残さない、困った人があればそっと手を差し伸べる、そんな豊かな心を目の当たりにしてまいりました。

 

講習会では、瑩山禅師の700回大遠忌にちなみ、「太祖常済大師瑩山禅師影向御和讃」が奉詠されました。

「題にあるように瑩山禅師様のお姿(影)に向かいお慕いする心をもって日々の生活を務める事を目指すお歌であります。今日一日の講習で瑩山禅師様のお姿を学び、真似をさせて頂く。一日真似をすれば一日の真似。二日真似をすれば二日の真似。一年で辞めたら一年の真似。しかし、一生真似をし続けたら本物になる。(禅師様のお言葉をお借りして)」

 

そう、先生にお示し頂きました。

 

・瑩山禅師をお慕いするお唱えはyoutubeなどで「太祖常済大師影向御和讃」と検索して聞いてみてください。

 

笑顔有り、学び有りの実りある講習に参加させて頂き、気が付けば帰りの道中では影向御和讃を何度も口ずさみながら運転しておりました。

 

曹洞宗のお寺では梅花流の講員さんを募集しております。

お唱えを通してみ仏の教えを学び、明るい暮らしを目指してみてはいかがでしょうか。

彼岸と花粉症

こんにちは、哲真です。

 

花粉症で悩まされる季節になりました。皆差はいかがですか。私は重症ではないのですが、朝課や法事などをしている時に鼻水や目のかゆみで苦労することがあります。私のいる地域は杉が有名な地域で、一面に杉の木を見ることができます。杉の木は緑色のイメージがあると思いますが、花粉をため込む時期になると茶色になることを知っていますか。その茶色がなくなり緑色になると花粉が終わるころです。早く、杉が緑色になることを願うばかりです。

 

今は、お彼岸の時期です。お彼岸は春と秋との2回あり、春分の日秋分の日を中日とし、前後3日を合わせた7日間をいいます。語源は、サンスクリット語「パーラミター(波羅蜜多)」の漢訳語「到彼岸」からきています。皆様、是非お寺やお墓参りに行ってください。

 

このお彼岸の時期になると、いつもおはぎのことを思い出します。ぼたもちとおはぎは同じものなのに、なぜ言い方が違うのか子どものころ気になってしかたありませんでした。そんな時、祖母から「春彼岸にお供えするのはぼたもち。秋はおはぎ」と教えられました。これは、それぞれ季節の花「牡丹」と「萩」にちなむもので、時節によってその呼び方が変わるというものでした。時節で呼び方を変えるなんて昔の人は季節を大事にしていたのだなと感心させられました。

 

現在は、季節に関係なく一年中食べ物がある時代ですが昔は当たり前ではなく、季節毎に食べられるものがあることに感謝していたのだと思います。今は、季節毎の感謝ではなく、一年中食べられることを感謝していくことが大事だと思います。感謝の対象としての違いはあるにせよ、感謝して食事をとることはとても大切にしていきたい習慣だと思います。

 

ある記事によると、「いただきますと手を合わせることは宗教的なので、幼稚園や学校では強制しないでもらいたい」ということが書かれていました。調べてみると仏教が由来ということでした。「いただきます」と言うことが宗教的という発想はこれが影響だったのです。

 

いろいろ考えを持つことは大変重要でありますし、表現方法も千差万別です。ただ対象はその人により違うと思いますが、感謝することは大事にしていきたいものです。

(寒)風に吹かれて

旅する禅僧コラムをご覧の皆様、こんにちは。俊宏です。

 

 

先日、お檀家さま宅への月経の合間にトイレを拝借がてら某7と11の付くコンビニエンスストアに立ち寄りました。

ちょうど小腹がすいたため、軽食としておにぎり等を買ってお店を後にしたのですが、その際に店内にお檀家さんがいたらしく、後日、お会いした際に目撃談として報告をされました。

別にうしろめたいとかそういうことではないのですが、なんとなく身が引き締まる思いでした。

 

いやぁ、本当に人の目というのはどこにあるかわかりませんね。

 

 

特に、今は携帯電話がスマートフォンに代わり、カメラや録音機能付きの高性能な端末を当たり前のように一個人が持ち歩く時代になりました。

 

 

そんな現代の当たり前が「人の目」というものの次元を、以前とはくらべようもないレベルに押し上げたように感じます。また、そういうことが原因として起こるトラブルも、一昔前と比べると増えてきた印象を受けます。

更にSNSを通じて見聞きした情報を簡単に発信できてしまう為、輪をかけて事柄のスケールが大きくなりやすいようですね。

 

 

先日も、某有名芸人さんがスマートフォン内に残っていたデータを証拠として、ワイドショーなどで過去のスキャンダルを報じられていたのが記憶に新しいです。

 

 

道元禅師

~善悪の報に三時あり、一者には順現報受、二者には順次報受、三者には順後次受、これを三時という~「修証義:第一章総序」

 

 

 

このように道元禅師も仰っていることですが、自らがした行いは良いことも悪いことも必ず結果としてかえってきます。(今回の某芸人さんの件についての問題の行動が報道されているとおり事実としてあったかどうかに関してはひとまず、置いておいて)

 

しかし、先にも触れましたが、そのリターンの速度と大きさが一昔前とは比べようもなく、早く大きくなっています。そんな風潮が良いのか悪いのかはさておき、はたして世の中は便利になったのか不便になったのか、寛容になったのか不寛容になったのか、、

 

ボブディランの言葉を借りてここは「答えは風の中」とでも言っておきましょうか。

 

 

 

季節柄の天候不順の影響か、ここ最近もやもやがとまらない谷俊宏が北国の寒空よりお送りしました(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結びとしては些か沈んだ空気になってしまったので、ここで先日、当寺院の仲間入りをしましたうちの犬っころをポスティングしておきます。どうぞご査収くださいませ。

 

共に歩む

こんにちは。拓光です。花粉症の症状が出始め、そろそろ季節が冬から春へと移っていくのだなと思う今日この頃です。

 

令和6年1月1日に発生した能登半島地震で被害にあわれました全ての皆さまに心よりお見舞いを申し上げます。

まだまだ予断を許さない状況が続いており、その様な中ではありますが現地のボランティア団体より呼びかけがあり、微力ながら私も先日、山梨県寺院僧侶5名で炊き出しの支援に行って参りました。

 

石川県内に入ると報道で知る様子と、実際に現地に足を運んで感じ取る印象の差を大きく感じました。それは被害状況に驚くことは勿論のこと、各地施設の窓に「支援をありがとう」、「一緒に頑張りましょう」などの感謝の紙が貼られていて県内の人々の震災には負けないという気持ちを強く感じました。

 

活動期間は2日間という短い日数であり、ボランティアとして私は何が出来たのだろうかという強い疑問が残り、ボランティアという難しさを感じました。また地震発生から数日のうちに現地入りしていればなにかしら違うものを感じたのではないかと思いました。

しかし発災地域を自分の目で確かめるということができたこと、また避難を余儀なくされている方、ボランティア参加者よりお話を伺うことが出来たことは実りのあるものとなりました。この経験を無駄にしないよう情報共有を徹底し、今後の活動にいかしたいと思います。

最後に「四摂法」の教えを紹介して終えたいと思います。

曹洞宗の教えを中国から日本に伝えられた道元禅師様は、四摂法という4つの教えを残されています。四摂法とは布施・愛語・利行・同事です。

布施とは他の人に自分の財力、能力を惜しみなく分け与えることです。

寄付をする、聞き上手の方が友人の話を聞いて不安な気持ちを取り除くなどです。
愛語とは「ありがとう」などの愛情のこもった言葉を語り掛けること。言葉の布施です。

利行とは見返りを求めない、人の為になる行いをすること。行いの布施です。

ボランティア活動をする、電車で辛そうにしている方に座席を譲ることなども当てはまります。

同事とは相手が喜んだら同じように喜び、悲しんだら同じように悲しむことです。心の布施です。たとえ相手の気持ち(悩み)がわからなくても隣にいて寄り添って共に悩むことも同事に含まれます。

この四摂法の教えをわかりやすくまとめますと、(同事)相手の立場に立って、(利行)良い行いを実践し、(愛語)良い言葉を語って(布施)分け与える生活を送ることをいいます。

 

この度の能登半島地震だけでなく、世界各地で頻発して起こる自然災害や、戦争などの混乱した世界情勢や、様々なウイルスの蔓延などの影響により不安な気持ちになってしまうこともあるかと思います。

しかしこのような時だからこそ、四摂法の教えの様に、愛のある言葉を掛け、思いやりのある行動をとることの大切さを深く心に刻みたいものです。

三日坊主

みなさんこんにちは。慧州です。

最近は寒さが厳しくなり、布団が恋しい季節になりました。

 

突然ですが、みなさんは「三日坊主」と言われたことはありますか?

「飽きやすく物事が長く続かないこと」を揶揄したことわざですが、その由来は僧侶の修行がとても厳しく、三日と耐えられない者が多かったことだそうです。

実はかくいう私は恥ずかしながら三日坊主の常習犯で、毎日の運動や読書の習慣など色々チャレンジするものの長続きしません。

特に長年私を悩ませることがあります。

それは早起きです。

 

前日に「明日こそ起きるぞ」と意気込んではみるものの、ついつい二度寝してしまいます。

そして、ようやく起きたと思ったら大慌てで身支度を済ませ、時には周りに迷惑をかけることもありました。

「早起きは三文の徳」とは分かってはいますが、なかなか継続できません。

 

修行時代も同様でした。毎朝三時半に起床するため常に寝不足で、寝る前から果たして時間通りに起きられるか不安で仕方がありませんでした。

そして、その不安がかえって寝られない原因にもなっていました。

 

ある日、永平寺の近くを流れる川を清掃する機会がありました。

全身を使って無我夢中で掃除をしたせいでくたくたになっていた私は、次の日はとても早起きできそうもありませんでした。

「もうどうにでもなれ」

そう思いながら布団に入るやいなや泥のように眠りました。

 

そして、翌朝。

驚くことに時間通り起きられたのです。

あんなに疲れていたのになぜ起きられたのか。

毎日の生活リズムを体が覚えていたからかもしれませんが、それ以上に「朝早く起きなければいけない」という思いを諦めて早く寝たことが良かったのだと思います。

 

曹洞宗の両祖である瑩山禅師は次のような言葉を残されています。

 

「臥するには臥し、起きるには起きる」『信心銘拈提』

 

「寝るときは寝て、起きるときは起きなさい」

ごく当たり前のことですが、果たして私は実行できているか。

寝なければならないのに、なんとなくスマホをいじっては夜更かしをしてしまったり、朝起きても「あと10分・・・・」とついゴロゴロしてしまったり。

まさに寝ることに専念していないのです。

 

今、私ができること。

それはどんな状況であっても置かれたその場を受け止めて、ただ誠心誠意過ごすことではないでしょうか。

早起きだけに限った話ではなく、人生全てにおいて同じ事が言えます。

たとえ失敗してもまたチャレンジすればいいのです。

自らを不安で縛るのではなく、今できることを着実に進めることが、長続きの秘訣なのかもしれません。

和顔 笑顔の花

皆様こんにちは!

光彬です!

いかがお過ごしでしょうか?

 

私事ですが、昨年10.20に娘が

誕生いたしましたm(_ _)m

とても可愛く、毎日おしゃべりをして

何かを伝えようとしています♪

 

3ヶ月がすぎて生まれた頃よりも

大きく賢くなってきましたが、

よく笑うようになりました。まだ何が楽しいとか

細かくは分からないそうですが、

こちらが何かアクションをすると

ニコニコ笑うのです。

こちらも自然に笑みが溢れます♪

 

タイトルにもある和顔とは

優しい顔、柔らかい笑顔によって

相手を安心させたり不安を取り除くという

布施行の1つです。

娘は私を楽しませたいという目的など

持たずとも、こちらを笑顔にしてくれるわけですが、たしかに私は娘の笑顔で

嬉しく穏やかな気持ちになってしまったのです。

 

娘に教わった和顔施

私自身も人に当たっては、

貧相な顔立ちではありますが

相手を安心させられるよう心掛けて

いこうと思います♪